軽度発達障害とは

 すくすく療育会は、軽度発達障害がある子ども達の健やかな成長を願って開設されました。軽度発達障害とは、明確な定義があるわけではなく、従来の特殊教育の主な対象とされてきた重度の発達障害の子ども達に対して、機能的な障害が軽い子ども達の総称と言われています。
 診断名で言えば,高機能広汎性発達障害・注意欠陥多動性障害・学習障害・境界線級知能・軽度精神発達遅滞などで、100人中ほぼ23人の割合でみられると言われています。知的には問題がない場合もあり、小さいときには見つかりにくく、対応が遅れてしまう場合もあります。
 遅れや障害の程度は軽いと言われていますが、学校や家庭で子ども達は困ってはいないのでしょうか。子ども達の成長を見守る家族には、どんな課題があるのでしょうか。
 どの子にもいろいろな思いがあります。褒められたい・仲良くしたい・上手になりたいと誰もが思っています。しかし、軽度発達障害がある子ども達は、自分の思いをうまく伝えることがとても苦手なので、たいていはうまくいきません。子ども達の言動は、わがまま・自分勝手・意地悪などと思われ、身のこなしも不器用な場合が多いので、集団の中では孤立してしまうことが多いようです。
 また,保護者は、しつけが悪いと言われたり、うまく育てられなかったと思ってひどく落ち込んだり、自分の思いが子ども達に伝わりにくいので、疲れ切っていたりします。

                 (参考文献 『発達 97号』)

 

 数人のグループで「ノアの箱舟」ゲームをしました。初めは、箱舟に見立てた段ボールがたくさんあるのでどれにでも乗れますが、1回ごとに舟の数が減っていくので、最後には1そうの舟に全員が乗ることになります。A君はお母さんと一緒に3~4人で舟に乗ることはできるのですが、全員がお互いにしがみつきながら1そうの舟に乗るときには、ひとりだけ逃げ出して、みんなの周りをぐるぐる回っているのです。A君はみんなと遊びたいのですが、触覚が敏感すぎてくっつき合うことがつらいのです。触覚だけでなく、味覚や嗅覚の場合もありますし、特別な色や音に強い嗜好や嫌悪を持ったりします。それで、日常生活の中で独自の秩序を作り、それを守ることで安定を得ようとします。
 ですが、わたし達の生活は日々変化をしていますし、子ども達自身の生活も広がっていきます。同じところに留まっていることはできないので、彼らの秩序は事あるごとに揺るぎだし、対処の方法が分からず、関連や見通しが持てない場合はパニックになってしまいます。
 すくすく療育会では、お父さんやお母さんをはじめ、先生やボランティアなどみんなが子ども達の特性を知って、子ども達が立ち止まって前へ進めなくなっているとき、「こっちへおいで。ここはだいじょうぶだよ。」と手を添えてあげられる会になりたいと思っています。

 

                  (すくすく活動内容の事例より)

 

 現在、県内でご活躍中のA先生がこうおっしゃっています。
「私の過去を振り返ると,学校でも家でも叱られる・失敗するの繰り返しで、自分ではどうすることもできず『どうしてこんなにダメな人間なんだろう』と思っていて、特に中学生のころは立ち上がれないような状態だった。 しかし、ADHD(注意欠陥多動性障害)のことを知ってはじめて自分のことが納得できた。」
 教室の中では、周りから来るたくさんの刺激の中から一番必要なものを選び取ることができず、何かを思い付くと、時間や場所にかかわりなく集中してしまって止められなくなってしまうため、課題や 宿題が何だったか分からなくなることがしばしばあります。課題が分かっていても取りかかるのに時間を要し、取りかかっても途中で物思いにふけってしまったり、別のことを始めたり、課題にまつわる小さなマイナスの刺激を回避しようとして多くの時間を使ってしまい、結局は課題を完成できないことがしばしばです。毎日の生活の中で否定されることが多く、成長の過程で不全感が長く続くと、 健全な自己形成が難しくなります。
 自分を見失わないようにしようとして過剰に反応して周りからうるさがられたり、不安のあまり常時からだの不調を訴えたり、自分はダメな人間だと思い込んで投げやりになったりするため、更に状況を悪くすることもあります。
 このようにADHDの子ども達の行動は、わがままで身勝手で無責任な怠け者と見られやすく、そのため正しい理解や適切な援助を受けられず、苦しい思いをしているのです。
                   (すくすくだよりNO.59より)

 保育園の2・3歳児は、どの子もみんなよく動き回りますが、逆に、他児と同じように動かず、ひとりだけ違うことをしていたりする子がいます。でも殆ど問題はありません。子ども達は年齢が上がるにつれて、集団の中でも目的に合った行動ができるようになります。しかし、ADHD(注意欠陥多動性障害)の子どもの中には、まるでエンジンで動かされているようだと言われるように、不適切な場面で過剰な動きをしてしまったり、あまりの刺激の多さに呆然としてしまって、指示を正しく聞き取ったり、約束事を覚えていたりすることがうまくできないことがあります。 そのため日常生活や教科の学習に支障をきたします。
 この子達が本来の能力を発揮できる方法はないのでしょうか。子ども達の行動を注意深く見ていると、ことばを聞いただけでは内容を覚えて実行することは苦手でも、文字や絵ならば記憶に留めやすかったり、必要な時に取り出せ るカードがあれば自分の行動を再確認して、次の活動に移ることができたりするという場合があります。又課題や内容によっては驚くような独創性を発揮し、他者の心の動きを汲み取る場合があります。
 生活年齢が上がるにつれて、彼等なりの方法でさまざまなことを学習し身につけていきます。それぞれの子には特性があるので、一つの方法がどの子にもあてはまるわけではありませんが、課題に取り掛からないことを何度も叱責 するよりも、取り掛かれない原因を見つけることの方が大切です。光や音、周りの人の動きやテレビからの刺激をコントロールするだけで、落ち着くことができたり、学習時間を区切ることで集中力が高まったり、次の活動を本人が ご褒美だと受け取った場合は、積極的に活動できたりすることがあります。子ども達が課題に取り組めるよう環境設定をすることは、とても大切です。
                   (すくすくだよりNO.60より)

 高機能自閉症やアスペルガー障害がある子ども達は、場の雰囲気や相手の気持を読むことが苦手です。相手の立場になって考えたり、手足の動きを真似ることがうまくできません。相手の表情を見ながら、ことばの持つ微妙な意味合いを見抜いたりすることは特に苦手なので、冗談や皮肉や喩えを、字義どおりに受け取ってしまい、真意が通じないことがよくあります。ですから、「くまさんになって考えて見ましょう。」などの質問は、とても困ってしまうようです。大抵は「(ぼくは、くまさんではないので)わからない。」と答えてしまいます。他者と話す時は、助詞 が違っていたり、自分と他人の立場を混同したり、「はい。」と答えるべきところを一生懸命「いいえ。」と答えていたりします。例えば、子ども達の中では「園長先生や校長先生は偉い人」という暗黙の了解がごく自然にできてくるのですが、場の雰囲気が読めない子には、人の権威や立場は理解できず、指示や注意を受け入れない場合がよくあります。「なんて失礼な奴だ。」と叱る前に、丁寧に教えておかなければならないことがたくさんあるようです。子ども達の頭の中には、他者と共有はできないが、それぞれに規範があるようです。その規範を揺るがすような事態が起こると、どうしていいかわからずパニックに陥ってしまいます。例えば、自分が並べた積み木の順番を誰かが変えた、担任の先生が急に休んだ、予定が変わって1限目が清掃の時間になった、自分のチームが負けた、僕が捕まってオニになった、手が滑って線がはみ出した、今までと違う方法で給食を配らなければならない、いつものセロテープがなくなったなど、納得できないことがとてもたくさんあります。

 また、皮膚感覚や味覚、聴覚、触覚、臭覚がとても敏感だったり、逆に鈍感だったりします。身体感覚のバランスが悪いこともあります。だから、ほとんど聞こえないような小さな音に反応したり、特別な匂いを好んだり嫌がったり、体に触れられることを拒否したりします。他児と手をつなぐのを嫌がり、仲間から離れてしまったりするのは、敏感すぎてつらいので、自分を守るために無意識 にしていることなのかも知れません。

 

                   (すくすくだよりNO.61より)

 

 高機能自閉症やアスペルガー障害、その周辺の障害を持つ子ども達を、広汎性発達障害と呼んでいます。対人関係が苦手で、偏りがあり、コミュニケーションに関わる障害があると考えられています。 相手の表情や気持ち、状況が読めないので、苦手な場面への不安や苦痛が強く、適当な表現方法が見つからない場合には、パニックになったり、問題行動となって現れたりします。
 当然のことですが、この子達にも、みんなと同じように、毎日の暮らしがあります。
 この子達にとっては、笑ったり楽しんだりして穏やかな一日を過ごしたり、頑張っていい結果を出したり、あるいは失敗の中からまた立ち上がったりする日常の生活のひとつひとつが、私達が感じているものとは少し違うのかもしれません。しかし一般的に,人は得意なことや苦手はことが個々に違いますので、この子達を理解してくれる「広く穏やかな社会の受け入れ」があれば、ひとつの「個性」として輝くことも不可能ではないと思います。
 近い将来、彼らの特性である視覚的な情報の受け入れの良さから来る能力や、数字や科学・データなど具体的な情報への関心の強さ、合理的で偏見のない思考過程などを生かすことができる場があることを願っています。
 子ども達が成長の過程で理解されなかったり、適切な指導を受けられなかったりした場合には、残念ながら別の問題が出てくる場合があります。これが二次障害といわれるものです                                      (すくすくだよりより)

 子ども達の中には、基本的には全般的な知的発達に遅れは無いのに、特定のものの習得と使用に著しい困難を示す子がいます。「LD(学習障害)」といわれています。
 学習場面では、漢字が覚えにくかったり、文章の読み間違いや読み飛ばしをしたり、文末を自分で作ってしまったりするなどの混乱があります。文章が読めても、内容がわかっていない場合もあります。
 日記や作文を書くこと・計算や文章題を解くことがとても苦手な場合もあります。
 また、他の人の話を聞くときに大切な内容を聞き落としたり、話したいことがうまく言えなかったりするので、誤解を招くこともあります。
 このように、知的な面では問題が無いにもかかわらず、聞く・話す・読む・書く・計算する・推論するなどの能力のうち、特定のものの習得と使用に著しい困難を示します。「文を読む」という活動だけに問題がある子もいれば、「聞く・話す」も同時に困難な場合もあります。「計算をする」は、算数・数学に直接関わりますし、聞く事や推論をすることが苦手な場合は日常の活動にも影響があります。
 「学習障害」の定義は、1999年、当時の文部省協力者会議の最終報告でまとめられました。20 07年度をめどに、これらの調査研究が、個別的・系統的な支援や指導をおこなう「特別支援教育」が始められるきっかけの一つになったようです。                                      (すくすくだよりNO.63より)